明晰であるとはどういうことか、についての試論

日常ってとても非日常的なものだよね、と言うととても奇妙なことを言っているように思われるだろうか。そう思わないでいられるのはある意味とても幸福なことなのだけれど。 先日、上田義彦氏と森山大道氏が対談するというので上田さんがオーナーのギャラリー916に行ってきまして、両巨匠の立ち位置の違いがはっきりとわかってなかなかに面白い内容でした。森山さんの方に明らかにアウェイ感がありあまり喋られなかったのですが、まあ上田さんの展示に際してですから上田さんを立てないといけないですしね。ただ森山さんが冒頭の発言をされましてね、何が森山大道という人を森山大道たらしめているのか、それははっきりとわかりました。 日常というものは、本来非日常的なものなのですよ。それは例えば、外国に旅行に行ったときって何を見ても目新しいですし、写真を撮ろうと思ったらいくらでも撮れますよね? でも現地の人たちにとってみればそれはただの日常です。日本人にとっては非日常であっても。逆に外国の人にとってみれば日本の日常は非日常であって、誰しも生まれたときには非日常である自分の環境に対し、慣れることでそれは日常であり、アタリマエの風景へと変わっていくわけです。 つまりは日常とは連続する非日常であり、それを言わばすでに理解されたものと錯覚しているに過ぎないということです。Duchampの「泉」が何故アートになるかという話ですよ。実はこれって、物凄く重要な認識ではないかと思うのです。森山さんは「普段見ている風景の中に無数のスリットが見える、それを撮る」「女の人がただ目の前を横切る、それは僕にとっては非現実的なことだ」とおっしゃっていて。上田さんの方はその話を聞いて「先日のフランスの事件のような非日常が」という例を出されていたので、おそらくはそういう感覚はあまりないのだと思います。別にそれは悪いことではなくて、そういう感覚があると一般社会では生きにくくなると思いますし、おそらく広告写真では成功していなかったでしょう。要は上田さんはモダニズムの人、森山さんはポストモダンの人ということですかね。単なるアプローチの仕方の違いと思います。 ただこれは私論ですが、若くして芸術の才を示す人間というのはおそらくはまだ日常が日常に成りきっていない状態であるために日常から非日常を引き摺り出せる。しかし歳を重ねて何もかもが...