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Bruno Latour考

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今日東京藝大で行われたBruno Latourの講演に行ってきたのですが。人類学の世界的権威の一人なのは確かな人物ですから、200人以上が講堂に詰めかけ院生とか研究者とかの雰囲気を醸し出している方々で埋まっておりました。写真は許可取ってないですがまあ文句がきたら消せばええがな、という。Bruno Latour、フランスはボーヌ出身の哲学者、社会学者、および人類学者。ボーヌ出身、というところでピンときた方は鋭いですが、どうもブルゴーニュワインの屈指の名家Louis Latour出身らしいという話で。この点は確認は取れていないので話半分としていただきたいですけども。 アクター・ネットワーク理論の創始者、と言ってもなんのこっちゃでしょうと思いますので検索してくだされ。超ざっくり説明すると主に科学実験等において人と実験道具等のモノを同列の行為主体として扱う、という理論でしてな。ちょっとそいつはオカルトか何かですか? という気持ちになるのもわからなくはないのですが。ただ、それを聞いて私が思ったのはですね。ワインに関して詳しい方であれば「テロワール(Terroir)」という概念はご存知だと思います。 ワインの、主にブルゴーニュにおいてその土地の特性(地質に加えてその土地の人間の気質や気候やなんやかんやが含まれる、という概念で精確な日本語訳はありません)に関してを表現する言葉なのですが。 おそらくアクター・ネットワーク理論の元はここからきています。あくまでおそらくですが。こんな機会ですし直接質問してみようかとすごーく思ったのですが、本人が実家がワイナリーであることを公表しているわけではないと思うのでそこは聞かない方がいいのかなと思って踏みとどまりました。とはいえ、これがなかなか面白いと思うんですよ。西洋というのは一般的な認識として人間と自然という主体-客体の二分法で世界を捉えていると考えられていると思うのですが、このテロワール、という概念は言ってみれば人間やら土地やら気候やらの各主体が各々に相互作用をなすという考え方であり、二分法的な考え方よりはどちらかというと東洋的な汎神論というかanimisticな思考であると思うわけです。 デカルトあたりからきっぱりと「modernité(近代)」が現出し、西洋=主客の二分法であるというのが思想史の教科書的な認識なわけです

今さらながら一眼ムービーを考える

今まで動画と中判デジバックに関しては「沼どころじゃない、そっち行ったら死ぬぞ」と思っていたので今まで頑なに見ないことにしていたのですが、多少暇なうちにできることは増やしておいたほうがいいと思い始め、最近いろいろと調べております。 今メインはD800なので、H.264 1080p 30fps(full HD)までは撮れるんですよね。最高画質での連続撮影時間は約20分、720pまで落とせば約30分(いわゆる30分の壁)までは撮れますが、較べてみたところ1080pと720pの差はかなり大きいので、動きの速いもの等どうしても60fpsで撮りたいということでなければ1080pで撮るのが正解と思います。D810であれば1080p 60fpsも使えますが、仕様を見る限りでは一度に10分しか撮れなさそうですね。 まあNikonにしてみれば多分、ウチは動画屋じゃないんで長時間動画撮りたい方はHDMI出力付けときましたんでBlackmagicかAtomosあたりの外部レコーダー繋いでくださいということでしょうけど。ていうかクロサワじゃないんですから普通そんなに長回ししないでしょう? という話で。ええまあ。1カットが20分を超えるようなのってクラシック主体の演奏会か舞台演劇、あとインタビューくらいかな。長く撮れるに越したことはないですが、そうすると今度はセンサーの熱が問題になってきますし、十分といえば十分か。 D5とD500が4K動画が撮れるということで話題になっておりますし、私も期待しているところではあるのですがこの感じだと実は4Kで一度に撮れるのは5分とか、30分までは撮れるけどファイルが6個生成されますとか、30分で生成されるファイルサイズは約24GBになりますとかになる予感。なんか外部レコーダーを前提に考えた方が良いような。どうせ4Kで撮るのならH.264よりはProResで撮った方が良さげな気がしますしね。 というわけで当面は1080p 60fpsで撮れるのなら私はそれで十分です。4Kに慣れちゃうと1080pでも物足りなくなるでしょうけども。30fpsでは正直ちょっとカクカク感があります。まあH.264でもかなり綺麗です。実際ファイルサイズを考えると動画で無圧縮とか考えただけでも気が重いですし。D500の画素ピッチのままのD810後継機が出てきたらISO1280

ワイン教室では教えてくれないかもしれないこと

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最近飲んで面白いと思ったワイン2種。左がオーストラリアのShobbrook Wines、右がカリフォルニアのBroc Cellarsです。とくに意識せずに買ってエチケットがたまたま黒と白で対称的だなと思ったのですが、そこに手書き風のシンプルな表記というところが似ているというのが並べてみるとなかなか面白い、とそのようなことを思ったわけでして。で、そのお味はというと。 ・CLAROTT 2014 Shobbrook Wines by Tommy Ruff 南仏っぽい綺麗なローヌみたいな赤。ちょいジャミーさあり、樽は感じない。税込み4,000円ぐらいとそこそこのお値段はしますが、試飲してポテンシャルを感じたので買いました。ビオ系に分類されるみたいなのですがそんなにビオっぽくはなく、あまりオリも感じず。セパージュはメルロとシラーズ。Lucy Margauxと並び称されるらしいのですが、ああいう小さい子供の描いた絵をエチケットにしましたみたいなセンスは好きではないので味以前の問題として飲む気がしないですね。 南オーストラリア、アデレード近郊のBarossa Valleyのワイナリーで、元々ヨーロッパ系の移民の多いエリアということもあってかあまりニューワールドを感じない造り。なおこのエリアはフィロキセラが蔓延したことがないため自根の古木がわりと多く残っているそうです。 ・CABERNET FRANC 2012 Broc Cellars 最初開けてすぐは濃いめのブルゴーニュに思えたくらいなめらかな造り。時間が経つとややスパイシーさが出てきてフランっぽさが出てきます。個人的にはブルゴーニュ好きに熱くおすすめしたい。これも4,000円くらいだったかな。本拠はカリフォルニア、Berkeleyの都市型ワイナリーのようですがSanta Barbara、Sonomaに加えオレゴンでもブドウを栽培しているようで品種もわりと色々と作っているようです。今後も期待大。 ちなみに今までビオい系も一通り飲んできたのですが、最近は飲んだ瞬間に馬小屋の香りが口の中いっぱいに広がるタイプのビオワインのいうのがどうにも苦手になってきまして。ビオが悪いとは思いませんが、卵白使って清澄するぐらいのことはしても良いのではないかと思います。濁ってるとか微発泡してるの

明晰であるとはどういうことか、についての試論

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日常ってとても非日常的なものだよね、と言うととても奇妙なことを言っているように思われるだろうか。そう思わないでいられるのはある意味とても幸福なことなのだけれど。 先日、上田義彦氏と森山大道氏が対談するというので上田さんがオーナーのギャラリー916に行ってきまして、両巨匠の立ち位置の違いがはっきりとわかってなかなかに面白い内容でした。森山さんの方に明らかにアウェイ感がありあまり喋られなかったのですが、まあ上田さんの展示に際してですから上田さんを立てないといけないですしね。ただ森山さんが冒頭の発言をされましてね、何が森山大道という人を森山大道たらしめているのか、それははっきりとわかりました。 日常というものは、本来非日常的なものなのですよ。それは例えば、外国に旅行に行ったときって何を見ても目新しいですし、写真を撮ろうと思ったらいくらでも撮れますよね? でも現地の人たちにとってみればそれはただの日常です。日本人にとっては非日常であっても。逆に外国の人にとってみれば日本の日常は非日常であって、誰しも生まれたときには非日常である自分の環境に対し、慣れることでそれは日常であり、アタリマエの風景へと変わっていくわけです。 つまりは日常とは連続する非日常であり、それを言わばすでに理解されたものと錯覚しているに過ぎないということです。Duchampの「泉」が何故アートになるかという話ですよ。実はこれって、物凄く重要な認識ではないかと思うのです。森山さんは「普段見ている風景の中に無数のスリットが見える、それを撮る」「女の人がただ目の前を横切る、それは僕にとっては非現実的なことだ」とおっしゃっていて。上田さんの方はその話を聞いて「先日のフランスの事件のような非日常が」という例を出されていたので、おそらくはそういう感覚はあまりないのだと思います。別にそれは悪いことではなくて、そういう感覚があると一般社会では生きにくくなると思いますし、おそらく広告写真では成功していなかったでしょう。要は上田さんはモダニズムの人、森山さんはポストモダンの人ということですかね。単なるアプローチの仕方の違いと思います。 ただこれは私論ですが、若くして芸術の才を示す人間というのはおそらくはまだ日常が日常に成りきっていない状態であるために日常から非日常を引き摺り出せる。しかし歳を重ねて何もかもが

Dedicated to Saul Leiter

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いやあパツキンていいよね、という記事ではないのですが。画像はアメリカに行ったときに撮ったアメリカ人の若い女の子の後ろ髪です。まあ決して嫌いではありません。むしろ好きです。帰国してから一度お蔵にしていたのですが、 http://flopetersgallery.com/artists/saul-leiter 先日この画像を見て気が変わりまして。コレはSaul Leiterという2013年に89歳で亡くなったアメリカ人の写真家の作品ですが、感覚がまんま同じで驚きました。なんか10年くらい前に当時住んでいた西葛西の河川敷で撮った写真がAlbert Renger-Patzschの撮ったこの写真 http://cs.nga.gov.au/Detail-LRG.cfm?IRN=90474 と構図がまったく同じだったということもありますし、無意識的に過去のスッゴイ写真家の撮った写真と、自分の撮った写真の構図や質感が非常に似ているということがわりとよくあるというのはセンスがあるとも言えるけれどもちょっと注意すべきであるとも言えるし、それは良いことでもあり悪いことでもあると言えるのかもしれないね。 さてそのSaul Leiterという人の代表作はEarly Colorと申しまして、かのSTEIDL社から出版されております。その名の通り70年代前後にニュー・カラーだとかが出てきてカラー写真がきちんとアートとして認められるようになる時代にかなり先んじてカラーで作品を撮っていたという人物。とはいえMoMAの写真部門のディレクターであったEdward Steichen様もその才能を見抜いていたらしいので、まあちゃんと見る人は見ていたわけですね。イタリアにもLuigi Ghirriという同じくカラーのアート写真の先駆者と言われている人がおりますが、「何故彼らは白黒しかアート写真として認められなかった時代にカラーであることに拘泥したのか」ということに対する回答は、昨年出たギッリの「写真講義」の翻訳を読めば明らかになります。 http://www.msz.co.jp/topics/07836/ Saul Leiterは元々画家になりたかった。ギッリの写真講義は、写真の歴史を語るのにまずイメージの歴史を語ることから始めます。そこには絵画があり、「如何にしてイメージを解釈するか

多言語学習についての覚え書き

ブログを放置したまま丸2年以上が経過しました。いや忘れていたわけではないのですが、そのうちに更新しようかと思いつつ幾星霜。また数年放置するかもしれませんし、明日更新するかもしれませんし、それは私の気分が乗るか否か次第ではあります。 さてなんで更新する気になったかといいますと、実は6月に仕事で2週間ほどアメリカに行ってきまして。North Carolina州なんですが、都市部にはBank of Americaの本社があったりしてそれなりに栄えてはいるものの一応アメリカでも南部に属する州でして、なーんかちょっと訛っているのか現地人の言っていることがいまいち聞き取れずびっくりしたというような経験をしまして。英語の発音て結構地域によってバラツキがあるんですね。生活環境によって使う言葉が異なるのは英語に限らずまあ当たり前といえば当たり前なんですが。 個人的には英語が出来ればOK、みたいな考え方は昔からあんまり好きじゃなくて、学生時代には英語以外の言語をやり始めてあれよあれよという間にそれが増え、最終的には日英を抜かして7種類ぐらいの言語をやっていたのですが、それら各種言語の有用性をつらつらと主張し、かくして英語の能力が中途半端なことになったというそのつまり言い訳となる理屈を捏ねるというまあそういうことです。ついでにおすすめの辞書なんかも紹介しちゃう。さあそれでは行ってみましょう。 1. フランス語 前職でワインを扱っていたので非常に役に立ちました。ワインの名前を読み間違えるって格好付かないので読めるに越したことはないです。フレンチ食べに行っても困らないですしね。あとは服飾と化粧品・香水の類いは言わずもがな。実用面ではその程度ですが、Roland Barthes、Michel Foucault、Jean Baudrillard、Claude Lévi-Straussあたりは人文系ならまー 読むだろー というか、翻訳のみでそれらを読んでも内容を理解できるとは到底思えないのでフランス語の学習は必須。これらの方々の書いた文章を原書で読むと、フランスのインテリ層というのは頭がおかしいレベルに頭が良いということを思い知らされます。フーコーあたりはもうあらゆる学問で常識として使いますし、社会学系ならÉmile Durkheim、Pierre Bourdie

Andreas Gursky

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このところ暑いわ忙しいわでさっぱり更新していないこのブログですが、そういやグルスキー展の感想を書いてなかったなと思ったわけで、ちゃちゃっと書いておこうと思います。↑はその展示の行われていた国立新美術館で私が撮った画像ですが、もーグルスキーの手のひらから抜け出せていないことが如実にわかりますね。ええ、わかってはいるのですが。 http://gursky.jp まあ、こういう作風です。大判カメラを使って(一応フィルムメインらしいです)広角のレンズを絞り込んで撮影したものをフィルムスキャンにかけてとにかく情報量の多い画像を生成するわけです。ただ、同じような画像を撮ろうとするとどうなるかというと、やったことあるからわかるわけですが、仕込みでない限り画面上のあらゆる要素が勝手に動き回るわけで、撮ったはいいけど細部が気に食わないとかいうことがいうことが絶対に出てくるわけです。 私も上の画像を撮るまでに300枚ぐらいは撮り直してますからね。最新のデジタル一眼ですらそうなんですから、今の作風を90年代後半からフィルムでやってるなんつったら気が遠くなります。つうか無理や。そんなわけで聞いた限りではスキャンした後にデジタルで加工しまくってはいるようなのですが、なんというか、菊地成孔さんがCorneliusを評してpro tools芸術と言ってたように、まさにphotoshop芸術の極地というか、そんな印象でした。 気になったのは年代によって明らかにクオリティが違うことで、最近になってようやく完成を見た作風というか、昔の作品とか北朝鮮のマス・ゲームの写真とかはとくに小さい画像だと気が付かないんですが、よく見ると被写体の人とかが少し動いてしまっていて止め切れてないんですな。この作風が本当の意味で技術的に完成するときというのは、大判でデジタルバックでISO感度が3200とかぐらいまで平気で上げられるようになり、画素数は数億とか数十億とかいうレベルの途方もない容量のデータを間断なく撮りまくれるようになったとき、かもしれません。まあ確かにフィルムでも出来ることは出来ますが、うーん、あんまり現実的ではないというか、真似するには余程の財力がないと厳しいですな。そんな印象でした。 上の画像は来月に一枚だけ展示をやる予定になっておりまして、画像処理エンジンの新しいソフトウェアが欲