人を撮るということ

ほんの数日前に、職場の飲み会で私の向かい側でちゃんこ鍋をつついていた人が交通事故で突然亡くなるという事件が起きる。はっきり言って、何の実感も湧きません。まだ20代の女の人で、とてもそんな痛ましい死に方をしなければならないような人には思えなかったのだけれど。こういうときって何も、言葉が浮かんでこないものなんですね。

ただ一つだけ確かなことは、どうにも仕様がないということ。時間は遡らない。どんな科学も、ただ無力なだけ。人って余りにもあっさりと死んでしまうものなのだなと、今更ながらに思います。せめてきれいに写真でも撮っておいてあげていれば多少は慰められたかなと思わなくはないのだけれど、でもそれは所詮写真でしかないという気もするし、何の意味もないのかもしれないと思ったりもします。

そんなことを考えていたらなんとなく、Gallery 916へと足が向いていました。有田泰而「First Born」展。すでにオープニングのレセプションのときにも一度行っているのだけれど、身近な死を前に「人を撮る」ということの意味を、その名の通りに人が生まれるまでの一連の光景を収めた作品を再度見つつ考えたくなったのでした。

有田泰而氏は今現在においては正直あまり有名な写真家ではないですが、上田義彦氏の師匠であり、一時期はかなり著名な写真家であったとのことです。主に1960年〜70年代にかけて商業写真家として活躍した後にあまり写真を撮らなくなり、アメリカの田舎へ隠遁して絵画や彫刻を制作し続け、昨年70歳で亡くなったとあります。

やや不思議な、厭世的な雰囲気も漂う人物感。そんな印象でしょうか。上田さんは弟子の時代に師匠の目を盗んではこっそりと今回展示された作品を見ていたらしいのですが、昔から相当に気に入ってらっしゃったようで。亡くなったことを機に有田氏の奥様が回顧展をやりたいと思い他の方と話を進めていたところ、そのことを知った上田さんは「この作品をこの世で一番愛しているのは自分だから、私にできることであれば何でもやらせてください」と言ったとか。

http://www.1101.com/ueda_yoshihiko/
詳細に関してはこちらを見ていただいた方が早いかな。秀逸な記事です。

思ったのは、これらの写真に写っているのは「死」ではなく「生」ではあるけれども、ただこれらの光景も決して還ってくることはないという点では「亡くなった方の写真」に写っているものと本質的には同じなんですよね。そう、やはりRoland Barthesの言う通りに「それは、かつて、あった」<ça-a-été> こそが写真のノエマ、であるということがかくして理解されたわけでありました。


さて、彼女への喪の一曲として、Antony & The Johnsons「Cut the World」。少し前に出たライヴ盤の中に入っていた新曲なのだけれど、相変わらず素晴らしい。既存の曲もライヴの方が良く聴こえるような。前回の草月会館での来日公演も特別なものであったけれども、巨きな音楽は巨きな場で奏でられねばならなりません。次は是非、巨大なホールで。そう願っています。

有田泰而展「First Born」
http://www.gallery916.com/exhibition/firstborn/

Antony & The Johnsons
http://www.antonyandthejohnsons.com

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